徳川家康の次男・秀康を妊娠した、家康の側室「お万の方(於万の方)」。
長勝院(ちょうしょういん)、於古茶(おこちゃ)、小督局(こごうのつぼね)とも呼ばれました。
お万の方はどんな人?
徳川家康の正妻「築山御前」は、岡崎城の敷地内に壮麗な御殿「築山御殿」を建てて、そこに住んでいました。
この御殿には、たくさんの女性が召使いとして仕えており、その中の1人がお万の方でした。
湖西市がまとめた「湖西風土記文庫」によると、お万の方は三河国知立の出身でした。
池鯉鮒大明神の神官の娘で、家系の正しい生まれでした。
仕事は御湯殿番。
築山御前や、家康が入浴すると気に、身の廻りの世話をする役目でした。
お万は絶世の美女で、気立ても優しく、利発だったので、家康に見染められ、妊娠。
「冬夜雑話」によると、
・・・御放鷹に出玉ひ、御帰城の節御湯殿にてその役を勤め、此時御手を付させによって懐妊あり
風呂の着替えを手伝っていたお万に家康の手がついて懐妊したという事です。
このことは、やがて築山御前の耳にも入りました。
築山御前は大いに怒り、お万の方はせっかんを受けました。
この様子を見た、家康の側近の本多作左衛門重次は、御殿の奥庭に忍び込み、お万のをさらって逃れ出ました。
そして、知人の豊田六郎左衛門の家へ連れて行きました。
六郎左衛門は遠州敷知郡小知波村(現在の湖西市太田)に住む郷士で、元来松平家に心を寄せ、作左衛門は若いころからの知り合いでした。
縁とは不思議なもので、家康の生母「於大の方」の義弟に当たる水野惣兵衛忠重も、六郎左衛門とは親密な知人関係にあり、惣兵衛まだ小身の頃、しばしば兵糧や金銭の面倒を受けていました。
この様な松平家との深い間柄から、作左衛門みずから依頼のお万の世話を六郎左衛門がすぐさま快諾したことは言う迄もないことでした。
豊田家では早速広い屋敷内に、相応の居宅を新築し、こうして初めて、お万にとって心安らかな日々を送ることができたのです。
お万の方が豊田家に滞在したのは、僅かに40日ほど。
そのあとは、小舟で浜名湖を渡り、浜名湖対岸の雄踏町(浜松市西区)へ移りました。
浜松市西区雄踏町、大通りからちょっと入ったところにある、見るからに歴史がありそうな、大きな邸宅。 近くに用事があったので、早速行ってみました! 中村家 中村家の資料によると、文治2年(1186)鎌倉で誕生した中村兵部之助正[…]
やがて天正二年(1574)2月8日、中村家で産んだ男の子が、幼名を於義丸、家康公の二男であり、後年の中納言越前宰相結城秀康公で、名門結城家を継ぎ、結城秀康と名乗りました。
秀康の秀は、秀吉から秀、康は家康の康です。
※参考文献「湖北・湖西の民話と史話101話」「マイタウン知波田」「湖西風土記文庫」
案内板の内容
静岡県湖西市おこちゃ屋敷跡では、家康側室お万の方は、正室築山殿結城秀康を孕ったが追放し本多重次が匿って浜名湖西のこの屋敷に。その後、40日滞在して中村氏屋敷に移り結城秀康出産。#どうする家康 pic.twitter.com/yubvuW5LWV
— 一二三 (@nunonofuku123) May 21, 2023
おこちゃ屋敷「おこちゃ屋敷」は、四百年以上の昔、太田の郷士、豊田六郎左衛門(ろくろうざえもん)が徳川家康の側室お万(おまん)の方をかくまった屋敷跡です。お万の方は、家康の正室、築山殿(つきやまどの)奥女中でしたが、家康の子を身ごもりました。築山殿の嫉妬(しっと)を恐れた家康は、「鬼作佐(おにさくざ)」こと本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)にお万の方を預け、重次のはからいにより太田の豊田家にかくまわれました。お万の方は「おこちゃ様」「おこちゃの局(つぼね)」とよばれ、村人から慕(した)われていました。かくまった離れ座敷を「おこちゃ屋敷」と今日に伝えています。四〇日余日滞在後、浜名湖対岸の宇布見の軍船兵糧奉行、中村源左衛門(なかむらげんざえもん)宅(国指定中村家住宅)に移り無事男子を出産しました。後年の福井六七万石を領した家康二男越前宰相、結城秀康(ゆうきひでやす)の誕生秘話です。湖西市教育委員会