江戸幕府は、軍事上のねらいから、浜名湖に橋をかけることを禁止していました。
そのため、舞阪宿と新居宿を人や荷物が往来するには、船をりようするしか手段はありませんでした。
新居宿では、新居関所のすぐ東側に、舞阪宿は西町の海岸沿いに石垣を築いて、石畳を敷き詰めて渡船場にしていました。
このあたりのことを、「雁下(がんげ)」と呼んでいます。
舞阪宿の渡船場は、お客さんの身分によって、北・中・南の3ヶ所に分かれていました。
北雁下は、大名や公家が使っていました。
中雁下(本雁下ともいいます)は、武家が使いました。
南雁下(渡荷場)は、庶民や荷物を渡すときに使っていました。
現在は、北雁下のみ残っています。
渡船の権利は、すべて新居宿がもっていました。
渡船場の石造の大工事は、新居町松山の実力者だった野口甚九郎が請け負って、約5年の歳月をかけて寛文元年(1661)に完成させたといいます。
以下は、現地の案内板からの引用です。
ここは浜名湖今切私の舞阪宿側の渡船場跡で明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。南側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。
雁下とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。
舞阪宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側には主に荷物の積み降ろしをした渡荷場、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁下と呼ばれています。
この北雁下は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18メートル)の石畳が水際まで敷き詰められています。
舞阪宿「北雁下」のアクセス
住所 | 浜松市西区舞阪町舞阪2121−3 |
駐車場 | なし |