息神社(浜松市西区雄踏町)は1000年以上の歴史がある式内社なんです!

浜松市西区雄踏町にある 中村家住宅のそばにある「息神社(おきじんじゃ)」。

大通りから少し入った所にあるので、近くに住んでいる人も知らない人も多いのではないでしょうか。

実は、息神社は1000年以上の歴史がある、由緒正しい神社で、式内社のひとつ。

神社好きの間では有名な神社なんです。

息神社の由緒

息神社は慶応2年(705)、志那都比古神(しなつひこのかみ)と志那都比売神(しなつひめのかみ)=風の神の二柱勧請したと言われています。※勧請とは、分霊を他の地に移して祀ること

そのあと、人々の信仰によって、山城国(今の京都府) の稲荷山から、 宇迦之御魂神 (穀物の神)、 猿田比古神(導きの神)、 大宮比売神(和合、 愛敬の神)の三柱を迎えて祭り、米大明神とも称えられました。

いつの時代かは、はっきりしていません。

「文徳実録」 には、 仁寿2年(852)8月5日遠江国息神従五位下を授けられ、同13日官社に列すると収録してあり、「延喜式神名帳」 には、 敷智郡六座の一つになっている式内社で、 社格が高く、昔からからこの地域の信仰を集めていたことが推測できます。

現在ある12枚の棟札には、文亀元年(1501)中村家14代の中村正實社殿再建、天正14年(1586)徳川家康が奉行本多作左衛門に命じて、社殿葺替えを行わせたと記録されています。

また、家康が子ども・秀康の開運を祈願して息神社をその産土神に定めたということや、徳川幕府からは、朱印状によって神領10石を認められたなど、息神社の偉大さがうかがえますね。

毎年10月の祭典では、神輿の渡御があり、「御旅所」として決まって駒形神社で小憩します。

これは稲荷山から祭神を舟で迎える際、休息した古事に倣っての名残で、神社の境内には「御旅所」の石標があります。

息神社に行ってみた

ぱっと見た限りでは、近くに駐車場はなさそう。

地域で親しまれている神社、という感じです。

鳥居と本殿を正面から。

鳥居にむかって右手に、由緒が書かれていました。

本殿

両側には狛犬が。

片隅にポツンと置かれていた、お手水?

江戸室町一丁目

と書かれています。

神社に行くと、ちょっとしたところに歴史を感じますね。

本堂とは反対側にある記念碑

※※耕地整理記念碑と読めますね

耕地整理とは、簡単にいうと、田んぼや畑の区画整理のこと。

現在は閑静な住宅地になっていますが、昔は田んぼや畑が広がっていたようです。

息神社の田遊祭

田遊祭は、2月初午の日 (現在は3月の初午の日)に行われます。

その年の五穀豊穣を祈願して、氏子のなかの 宮座といわれる、中村、吉田、 藤田、内田、宮崎の五名の人々がが行ってきました。

その後、宮崎に代わって山内、山下が入り六名の人たちによって行われています。

田遊祭の歌詞は鎌倉時代に作られたともいわれています。

宝暦7年(1757) から明治4年(1871)までは、毎年2月初午の日に行われていたそうですが、神仏分離の政策の影響を受けて、歌詞を変えなければならなくなり中絶してしまったそう。

明治40年 (1907) 頃復活しましたが、歌詞 (仏に関する部分を削除) の関係もあり、踊りなどは廃絶、唄だけが復興して現在のようになりました。

拝殿の中央に田所が作られます。

お祭りの目的は、この田所に種を一升まくこと。神前の籾を、神主から代官へ、代官から田主へ、 田主から6名の代表者へ渡します。

「種をまこうよ」の詞で、神主が田所へまき、 続いて詞に従って6名の代表者がまきます。

その間、 神主の打ち鳴らす太鼓のリズムに乗って、代官、田主、歌い手、6名と、全員が唄う部分があります。

最後に全員で万歳楽(まんざいらく)を21回唱えて、その間稚児が鈴を鳴らしながら、3回田所を回って終わりとなります。

この田所の籾を持ち帰って、 自分の苗代にまくと、小鳥に拾われないといい伝えられています。

息神社のアクセス

住所 浜松市西区雄踏町宇布見8690−1